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259号 人生あれこれ #19 自動車部品製造業に傾注

-2014/12/15-

大型プレス作業風景.jpg当社は、戦中に軍需産業のメッキ加工業として発足し、戦後は再生品のメッキ加工を生業としてきた。戦後初めて行われた中国地区メッキ技術コンクールで県知事賞を受賞したことで、朝鮮特需の自動車部品のメッキ加工の受注に成功して以来、メッキ加工専業から自動車部品製造業へと次第に軸足を移していった。昭和34年の野田工場への移転時に、事業欲に燃えていた溥社長は、事業拡大を目指し積極的に自動車部品の生産設備投資を行った。しかし残念なことに総評系の労働組合が設立され、その収拾に多大の年月を要し経営近代化については同業他社に比べて大きく後れを取ってしまった。昭和40年水島機械金属工業団地(現ウイングバレイ)内に立地した総社工場は自動車部品専業の工場である。メッキ部門ではバンバーを立て吊りできる全自動大型Ni‐Crめっき設備、板金部門では念願の大型プレス350Tラインやドアーサッシュ生産ラインなどが新設され、素材から表面処理までの一貫生産体制づくりに本格的に着手した。水島機械金属工業団地は、高宮晋一橋大学教授、滝沢菊太郎名古屋大学助教授など6人の先生方が広島通産局と岡山県商工部の依頼で、三菱重工水島自動車製作所(現MMC)とその下請け企業の系列診断を行ったときの答申「中小企業近代化施策の工場集団化高度化資金」を活用して造られたMMC下請け企業の団地である。

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258号 人生あれこれ #18 父と私

-2014/07/22-

出掛ける父溥95歳人には、生まれてくる時や場所を自分で選択する自由はない。私も自らの意志で世界大戦最中の真珠湾攻撃の日を選んで日本国民として生まれてきたわけではなく、天から与えられた運命によって父溥と母貞の長男としてこの世に生を授かった。両親は、私にこの人生を与えてくれたのである。


けなげなる子供は「愛」で育つと言われるが、それでだけでは不十分で「敬」が必要であると先哲は説いている。子供は「可愛がられたい、愛されたい」という本能的欲求と同時に、「敬」という対象を持ちその対象から自分が「認められたい、励まされたい」という強い欲求も持っている。その「愛と敬」が相まって初めて人格が形成されていくという。多くの人と同様に、私も「愛」の対象を「優しい母」に求め、「敬」の対象を「敬慕される強い父」に求めた。

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257号 人生あれこれ #17 大量生産の生産技術確立へ

-2014/03/10-

油圧バンパー成形機.jpg世界に冠たる日本の自動車産業の夜明けは、『岡山在住の技術者、山羽虎夫』が1904年初の純国産自動車である「山羽式蒸気自動車」を制作・試運転したのが始まりである。


戦後の日本の自動車メーカーは、先を争って欧米の先進技術の導入を積極的に進めた。東日本重工業(現三菱自動車)はアメリカのカイザー・フレイザー社(1950年)、日産自動車はイギリスのオースチン車(1952年)、日野自動車はルノー車(1953年)、いすゞ自動車はイギリスのルーツ社のヒルマンミンクス車(1953年)など乗用車の受託生産を始めた。純国産技術を維持したのはトヨタ自動車だけだった。


当時の自動車産業に携わる者は、地元の経営者から「世界と伍して、海のものとも山のもとも分からない儲けの少ない仕事をするなんて愚か者だと言われた」と聞かされている。しかしながら当社は、そう評された自動車産業の成長を信じ、三菱自動車の協力工場の工業団地に進出したのである。

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256号 人生あれこれ #16 自動車産業の発展の息吹と米国の近代的マネジメントの導入

-2013/12/09-

日本経済も戦前の工業生産水準に復活し「もはや戦後ではない」と言われる昭和30年代を迎えていた。父は工場を野田に移転拡張し本格的モータリーゼーション発展の息吹を肌で感じていたようだ。またこれまで無我夢中で事業拡大に意欲を燃やしてきて、社員数も200名の規模にまでになっていた。


その頃、岡山県の指導による中小企業診断協会の経営診断で、大幅な経営管理の刷新勧告を受け、父は改めて社員教育の必要性を痛感させられたそうだ。社員の多くは、色々なキャリアを持った中途採用者で、学卒はまだ極少数であった。当時は社員にきちんと系統だった技術教育や管理教育などしておらず、手先が器用で人を引っ張る能力のある人が幹部となり会社を牽引していた。

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255号 人生あれこれ #15 健全な労働組合の誕生②

-2013/07/08-

当社が野田工場へ移転した昭和35年、モータリゼーションの波は三菱重工水島製作所の自動車特需を生みだし、協力工場は企業の近代化が急務となって来た。その最中、当社に誕生した岡山一般合同労組は、経営者をはじめ社員を労務問題で翻弄し、企業の近代化を遠く遅らせてしまった。基幹部品の受注には後れを取り、協力工場の地位は下落すし、その挽回には多年の年月と労力を費やすこととなった。「経営者としては慙愧に堪えなかった」と後々に社長は述懐していた。


昭和40年三菱重工水島製作所の協力工場は集団化し、総社水島機械金属工業団地(略称団地)に進出し、同年設立された団地の三菱自動車協力工場労働組合(略称菱労)に我社の労働組合も加入した。団地企業の労働諸条件(賃金、賞与、退職金など)は団地の労使による中央労使協議会で決定され統一的運用となった。団地進出の企業の中には当時、労働組合を持っていない企業も多くあり、この協議会のお陰で各社の労働条件が格段に向上して行ったのである。

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254号 人生あれこれ #14 健全な労働組合の誕生①

-2013/04/22-

昭和35年(1960年) 野田工場の航空写真朝鮮特需以降も、企業の近代化・合理化の為の積極的設備投資は続いた。


昭和31年「もはや戦後ではない」と言われ、太陽族やロックンロールブームは戦後の世相を突き抜け、日本は確実に新しい時代を迎えた。


弊社の桑田町工場移転の大型投資も誠に時宜を得て、7年間で売上高を7倍、社員も100人増加の130数人にまで急膨張した。繊維や自動車部品などの受注増加で早くも桑田工場は狭隘となり、更なるスケールメリットを追求し、昭和35年末岡山市野田へ拡張移転をした。野田工場建設は桑田工場と同様、旧工場を解体し組上げる突貫工事のエコ移転であった。この工事の最中(さなか)の冬休み、私は工場夜警を面白半分で引受け、愛犬のシェパードの「アスター」をお伴にオート三輪運転台の中で寒さと泥棒怖さに震えながら夜を明かしたこともあった。

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253号 人生あれこれ #13 桑田工場へのエコ移転

-2012/12/03-

桑田町工場前.jpg戦後の復旧期の当社のメッキ仕事は、未だ民需製品の国内生産体制が整ってなかったために、大半が「自転車のハンドルやリム、ミシンの部品、外科用のメス、紡織機のロール」などの再生品のメッキ加工であった。戦後間もない暗い時代に、再生メッキで光り輝く自転車は、ステイタスであり裕福とお洒落を誇示したものだ。


復旧から復興が進むにつれ、顧客は再生品に加え紡績・織物・縫製加工会社、農機具メーカー、発動機メーカー、耐火煉瓦会社、自動車メーカーなどへと拡大していくことになる。また一時期繁栄を極めたのがパチンコの玉のメッキであった。国民の娯楽への関心が高まり、パチンコが大衆の娯楽として定着し、県下に数百軒のパチンコ店があった。各店によって大きさの異なる玉をメッキの色で識別していたため、仕事量が急激に増加し会社の中には常時パチンコの玉が入った木箱が、所狭しと置かれていた。


戦後の復旧期から復興期そして高度成長期へと経済規模が拡大移行していく過程で、当社も6,7年毎に次々と工場の拡張移転を繰り返し、事業規模の拡大を図ってきた。

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252号 人生あれこれ #12 菊づくり 菊みる時は 陰の人

-2012/07/16-

我が家の庭の父母.JPGこの度、経営者である父と共に生きた亡き母の思い出を語ることに、身内であるが故のおこがましさとためらいを感じながらも筆をとることにしたのは、わが社を語る上で、陰で支えた母の存在の大きさを避けては通れないと思ったからである。母「貞」は、新潟で七代続いた漢方医若槻家に、四人兄弟の三番目に長女として生を受けた。幼くして父を失ったので母子家庭で育った。祖母は東大の助産婦科を出て同窓生だった祖父と結婚し、祖父の医院の手助けをしていたが、祖父の亡き後、助産婦を続けながら四人の子供を養った。ただ一人の女の子だった母は幼い頃から家事を手伝いながら兄弟の面倒もみていた。この母子家庭で身に付けた生活の知恵や培われた母の性格が後に父の良き協力者として会社の仕事や人間関係に活かされた。

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251号 人生あれこれ #11 子供の頃の歳時記

-2012/07/02-

我家の庭の竹につるした孫たちの七夕飾り.JPG戦後日本は、欧米の近代科学技術の導入の加速によって驚異的な復興をとげ、世界に冠たる経済大国となった。その過程で日本人はひたすら利便性と快適性を追求し、いろいろな便利なものを生み出した。しかし一方で、これまで大切に育み、受け継いできた様々な伝統や慣習を置き去りにした。


そもそも日本は、稲作農耕を主たる生業とし、生きとし生けるものや自然との共存を図ってきた。そして自然の営みに畏怖を抱き、自然と共に生きる自分たちの生活の安寧を願い神仏に「祈りや感謝」の色々な行事を行ってきた。それらを私たちは、自然や人生の節目ふしめに、親や祖父母から教わりながら引き継いできた。しかし年を重ねて行くうちに面倒くさくなったり、あるいは社会の近代化と共に非合理性や古臭さを感じたりで世間では行われなくなったり、簡素化されることが多くなった。

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250号 人生あれこれ #10 大供(だいく)工場時代の生活(2)

-2011/11/21-

大供工場時代(小学3年生)、岡本家の子どもたちと大供工場での生活は昭和22年5月から昭和28年7月(小学校4年)までの6年間であった。敗戦直後の日本は「新円切り替え・預金封鎖」、更に「物価統制」が敷かれ、米や食料品、衣料品などが配給制となり国民は空腹とモノ不足に悩まされ、インフレと生活苦に喘いでいた。私たち子供らは破れたズボンのお尻や膝に継ぎ当てをして大事に着せられ、靴下などはほとんど履かず素足に運動靴だった。その頃の家庭の暖房はと言えば、炭か煉炭の火鉢しかなく、一酸化中毒にならないように、時折換気の為に窓を開けて震えながら過ごした。寝る時には、冷たい布団の足元に金属性の「湯たんぽ」か真っ赤に熾した炭団(たどんと振り仮名をつける)を入れた素焼きの「炬燵」を置いて貰った。それでも布団から出ている部分は冷たく、小さく丸まって眠ったものだった。

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