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249号 人生あれこれ #09 大供(だいく)工場時代の生活(1)

-2011/08/08-

ビーダマ私が結核性肋膜炎で一年間の入院を余儀なくされ、退院してからの我が家の食生活は、どのようにして私に滋養あるものを食べさせ体力をつけさせるかに重点を置いたものとなった。まだまだ食料難の時代で、栄養価の高い肉や鶏卵などの食物は高価で手に入りにくく母は大変苦労したようだ。一人っ子であっただけに母の思いは殊更強いものがあった。今のように医療も充実しておらず、治療薬も十分にはなく、勿論栄養剤やサプリメントなどない時代であったので、食事で栄養を採ることしか方法はなかった。

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248号 人生あれこれ #08 工場建設と結核性肋膜炎

-2011/04/11-

集配用オート三輪車と私の従兄昭和22年3月、父の長年の夢であった自前の工場建設が岡山市大供で始まった。戦後の経済はまだまだ渾沌としており工場建設の物資も少ない折、当然ながらお金もない父は手造りの工場を建設することを覚悟したようだ。父の生家を建てた大工の棟梁の息子兄弟が「父のことなら」と進んで工場建築を引き受けてくれた。工場の材木は、実家の伯父(父の長兄)がシベリア抑留中だったにも拘らず、祖母(父の母)の英断で実家の山から伐り出すこととなった。伐られた材木は、実家の農耕用の牛を使って、狭い急勾配の山道を運び出された。大きな丸太が牛に引かれる途中、急に惰力で牛に向かって滑り落ちる様(さま)に肝を冷したことが今も瞼に鮮明に焼きついている。お陰で96坪の手造りの工場が昭和22年5月に立派に完成し、我々家族も事務所裏の六畳一間に台所が付いた部屋に住むことになった。当時のトイレは社員との兼用で独立した建物となっていた。外のトイレは冬には寒く、夜などは子供心に怖くて何ともいえない思い出が残っている。また風呂も独立してなくて、メッキラインの鉄の前処理煮沸槽が終業と共に風呂に様変わりし、社員や家族が順番に入浴した。これも懐かしい思い出である。

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247号 人生あれこれ #07 いつも家族の一員

-2010/11/29-

アスター私が物心ついた頃から、いつも我が家には猫か犬、時には別の小動物がいた。父の動物好きは私にも脈々と受け継がれているようで、現在我が家には可愛い三匹の猫がいる。父は母と結婚すると同時に猫とシェパードを飼ったという。父のペット好きは、都合のいい時に可愛がるだけの勝手極まりないもので、面倒は全て母に任せっきりである。どうやらその身勝手なDNAも私は引き継いでいるようで妻には誠に申し訳なく思っている。


大供工場では柴犬「コロ」と猫の「チンサ」を飼った。我が家の猫は代々「チンサ」と名付けられた。初代が我が家で一番偉そうに「鎮座」していたかららしい。動物たちは楽しい思い出をたくさん作ってくれるが、悲しい思いも覚悟しなければならない。初代チンサは工場が拡張移転した折に一緒に連れて行ったが隙を見て脱走したまま二度と帰っては来なかった。新しい家の外にチンサの好きな餌を毎日置き、旧工場にも何度も探しに行ったが見つからなかった。二代目チンサは「猫は家に居つく」の言葉通り床下に身を隠し一人寂しく自然死を迎えた。幼い頃の悲しい思い出である。

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246号 人生あれこれ #06 事業再開と人の情

-2010/08/17-

005.jpg戦争によって日本の大都市や県庁所在のほとんどが米軍の爆撃を受け、町は焼け野原となり、主だった工場の大半は焦土と化した。終戦後のモノ不足とインフレは日を追うごとに深刻さを増し、町には闇市が堂々と軒を連らね、繁盛する時代となった。しかし多くの国民は食う食料も、働く職も、生産する設備・資材もなく、餓死者が多数でるなど悲惨で先行き不安の暗澹たる状況にあった。

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245号 人生あれこれ #05 岡山大空襲

-2010/05/17-

岡山大空襲昭和20年6月29日の深夜から始まったアメリカ軍B29による大空襲で、岡山市街地は一面火の海となり、街は焦土と化した。そして多くの尊い命が奪われた。母は、明け方、私を抱いて真っ赤に染まった東の空を恐ろしく不安な気持で見せたと聞かされた。我が家族は、父の実家(現在の岡山市新庄上)の田植えの手伝いに来ていてみんな無事であった。父は夜明けと共に危険をも顧みず取るものも取り敢えず、自警団の注意も無視して一目散に会社へ駆けつけたそうである。地獄絵図のような焼け野原の中を社員の安否と工場の被災確認のために夢中で走った。念願かなってやっと立ち上げた工場は、無残にも焼夷弾で全焼してしまっていた。幸いにも会社の社員と戦略物資生産強化のために香川県から働きに来ていた十数名女子挺身隊の人達はみんな無事で本当に安堵したと言っていた。不幸中の幸いであった。

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244号 人生あれこれ #04 我が家の正月

-2010/02/15-

日本は四季の彩りに恵まれ、そもそも農耕を生業(なりわい)としてきたので季節の移り変わりを大切にしてきた。一年のうちにいくつもの「晴れの日」を設定し、自然そのものに感謝してきた。

正月もそのひとつで、新年の神である年神様(歳徳神)が各家庭に降臨してくると考えられ、その年の幸運を授けて貰うために、家族で迎え・まつるしきたりだと言われている。

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243号 人生あれこれ #03 充実した岡山での暮らし

-2009/11/30-

父の夢叶い、郷里で事業独立することとなり、私たち家族は岡山へ帰った。生誕の地、神戸での生活はわずか1年足らずの短いものであった。

当然私の記憶にはないのだが、神戸での生活では、生まれる時から付きっ切りで見守ってくれた、近所に住んで貿易や広告業を営んでいた父の二番目の姉夫婦に殊の外可愛がられたらしい。毎日我が家へ私を借りに来ては、自分の孫のように近所に見せびらかして歩き廻っていたという。

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242号 人生あれこれ #02 待ち望まれた私の誕生

-2009/08/10-

亡き母の財布に大切に残されていた「私」私は、第二次世界大戦の日本軍の戦況華々しかった12月の某日に、神戸市の桜口町(JR六甲道駅)でこの世に生を受けた。くしくもパールハーバー開戦のちょうど1年後であった。

両親はなかなか子宝に恵まれず、結婚してすでに6年の歳月が流れていたので、待ち焦がれていた男の子、この天からの「授かりもの」に大変な喜びようだったそうである。その後も兄弟姉妹には恵まれず、私は「ひとりっ子」として育てられた。そしてこれが「善しきに付け、悪しきに付け」私に与えられた「我が人生」となった。命名に当たって、戦時中の新聞の活字に躍っていた「正義」の言葉をとって、「常に正しく義を持って世の中を生きろ」との強い願いを込めて「正義:まさよし」と名付けたと父母から聞かされた。

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241号 人生あれこれ #01 いざ第二の人生、と思ったら・・・

-2009/05/13-

マンションからの夜景今日まで過去を振り返る暇もなく、ただがむしゃらに前ばかり向いて歩いてきた。思えば典型的な会社人間として生きてきた。

 

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ロシア視察記 その三

-2009/05/13-

モスクワのモーターショーサンクトペテルブルグは、今や自動車産業のメッカ、ロシアのデトロイトである。トヨタ、GM、現代自動車、スズキ、日産はじめ自動車部品メーカーの大手マグナが同じ工業団地に立地している。トヨタは既に操業を開始し、GMは工場建設中、その他の企業はこれから工場建設を始めようとしていた。政府としては、自動車メーカーの誘致が一段落したので、今後は部品メーカーの誘致を熱心に取り組もうとしており、既に部品メーカー向けの工場団地が造成されていた。

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