おかめWEBトップ > 社長ブログ > 大船渡訪問記

大船渡訪問記

-2013/03/04-

ここが大船渡☆縁あって1月に岩手県大船渡市に行ってきました。もちろん、東日本大震災の被災地の一つです。地理的に場所がよくわからない人も多いと思いますが、宇都宮→郡山→仙台→盛岡→青森という主たる街道から外れた、仙台と盛岡の間で気仙沼のまだ先の、海が目の前で漁業が主要産業の港町です。


一ノ関駅からJR大船渡線快速「スーパードラゴン」(と言っても1両編成♪)が出ているが、現在は気仙沼止まりで、その先は震災以後は使えない状態です。言わば陸の孤島、大船渡。

 

 

 

 

 

 

スーパードラゴン♪当日は、前日の大雪で気仙沼にも到着できず、手前の無人駅まで車で迎えに来てもらいました。ドライバーは初めてお会いする34歳のナイスガイ、生まれてからほとんどを大船渡で生活している彼でした。車に揺られながら気がつきました。僕がこれまで住んできたところにはない風景、それは平野は猫の額ほどでほとんどが山、山、山。山の上、海岸線に張り出す峠から見た海は、はるかかなたまで広がり、リアス式海岸と相まってびっくりするほどきれい。つい彼に「うわっ、どうにもきれいじゃな(岡山弁丸出し☆)」と言うと「きれいでしょ、ほんとにきれいなんですよ」と返事。震災があって、ここに来て、つい言ってしまって、"うわっ..."と思ったけど、意外な一言。そんな空気を察したのか、彼は続けて「こんなこと聞いたらだめかなとか、気を使ってもらう方がきついんです。素直になんでも話できる方が僕らも楽なんです。」そう言ってくれた。「それじゃあ...」と「震災の時はどうだったん?」「当時は母親と嫁と3人暮らしでした。僕は陸前高田(大船渡とは車で15分ほど)で仕事していて、嫁は美容師なんで大船渡で働いていて、母親は休みで家にいました。それで地震があって、僕は運よく助かって避難所にいて、でも家族は誰も連絡がつかなくて、電話もダメになって、翌日から同じ立場の仲間と避難所をとにかくどんどんまわって探して、大船渡まで行って自分の家を見たら、流されて何もなくて、いろんなことが頭をよぎったけど探して、そしたら4日後に嫁に会えて、母親も無事で...、顔見た瞬間に涙が止まらなくて、あんなに泣いたことないです...」「そうなんじゃ(これが精一杯の相槌)」

 

 

海☆大船渡への通り道に陸前高田市がある。津波の被害では一番大きな被害があったところ。たしかにこの辺りではびっくりするほどの平野が広がっている...そりゃ、家も建てたくなるよなと納得。そして現在は一面なにもない平野。少し陸地の内側に入り込んでいるので(逆にこの地形が津波を大きくした)、ここまで津波は来ないじゃろうと安穏としていたために、人命も多く失われたそうだ。隣り合わせの4階建ての市役所と3階建てのスーパー、どちらに避難したかで明暗が分かれ、スーパーに避難した人は全員亡くなったそうだ。


今夜のホテル、無理をして部屋を押さえてもらったようだ。フロントで聞くと、2ヵ月は前に予約しないととれないそうだ。今回のメンバーの半分がホテル、もう半分は仮設住宅に泊まる。仮設住宅は1泊1,000円。仮設住宅の間取りはだいたい3LDKとかで、部屋と布団はあるが暖房がない部屋もあって夜はとても寒いらしい。ホテルに案内されて彼から一言「このホテルは津波をかぶります。地震が起きたら、道の向こうの大きなホテルの屋上か向こうの山に駆け上がってください。」 「...」

 

 

仮設住宅を連ねた夜は大船渡の繁華街へ。と言っても、仮設住宅を連ねた商店街と屋台村、ビニールハウスでやってる居酒屋、仮設住宅で営業しているバー。ここにいろんな人が集まってワイワイやっている、しかも聞こえる話は前向きな話ばかり。「みんなそれぞれいろいろありますよ、でもいろいろあることが当たり前なんで、もうそんなこと話さないですね」「避難所生活も長くなると、人に何かしてもらったり、物をもらうことに慣れてしまって、若いやつで働く意欲を失くしてるのも出てきて問題になっています。どうやって自立させていくか、そのプログラムをつくらないといけないんですが、仕事自体もなくて...ね、いろいろあります...」でも、やはり東北。お酒が好きな人は多くて、みんな楽しそうにワイワイワイワイ☆


翌日はさらに被災地をぐるっと案内してもらう。陸前高田に残る建物は野球場の照明(津波の後、しばらくは水が引かず、海から生えているような状態だったそうだ)や明暗を分けた市役所などごくわずか。残してほしいという声が多かった壊れて吹きっさらしになってる市役所も、維持費が出せないということで翌日から取り壊しだそうだ。

 

 

ビニールハウスの「ここの魚おいしいんよ」港のそばの魚屋に寄る。あいにく定休日だったが、たまたま中で仕事をしていたおばちゃんが「よく来たの、どうぞどうぞ」と中に入れてくれる。「今日はうちのおじさんは休みで、魚屋だけど山に鹿撃ちに行っとる」とかいろんな話をしてくれ大笑い。再び車を走らせ、岡山の友人が言う「あのおばちゃんおもれえじゃろ、いつもあの調子で、おじさんがまたさらにおもしろうて、二人揃うと最強なんじゃ。でも実は娘さんを津波に流されて亡くされとんよ...。さっきもらった魚屋のチラシとかホームページとかネットでの販売とか娘さんが仕事は別にしながら、手伝ってつくってあげて全部管理しとったんよ。この仕事、せっかく娘がつくったものだからって、ネットなんてまったく知らんかったあのおばちゃんが勉強して受け継いでやっとんよ...。それとな、娘さんの亡骸が見つかって、対面して、おじさんこう言ったらしいわ『今夜のごはんに生卵用意せえよ』って。生卵はおじさんが子どもの頃の一番の贅沢品だったらしいわ。おばちゃんが言うには、つまりは一番好きな食べものを用意して贅沢なご飯にしようってことだったらしい...わけわからんけど深いわ。それから二人の中でも娘さんの話はほとんどせんらしい」


大船渡の彼、家を建てる計画。もとの家があった場所は家を建てられない。厳密に言うと建ててもいいが自己責任。行政は売ったらいいと言うが、何に売れる? 倉庫?工場? 奥さんの実家が持っていた畑に家を建てることにした。被災していない義父が申請すると却下、被災者である自分が申請すると農地の住宅転用OKの返事...。義父母宅も畑に建て直し、同じ敷地に家族みんなで住むことになるそうだ。


とにかく瓦礫の処理は進んだ。これからどうする、なにする、それがまったく決まっていない。「行政はあてにならん」「最初は現場主義だったけど、半年もしたらいつものお役所仕事」「被災地支援を言うのは選挙の時だけ」「だから自分らでやるしかないんよ」みんなの声が耳に残った。合言葉は「がんばっぺし」♪ 僕らは何ができる?


このページのTOPへ