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270号 人生あれこれ 海外視察・旅行の思い出(2-1)

-2018/09/03-

イグアスの滝.jpg思いで深い海外旅行の一つに、1990年11月2日から17日までの15日間の南米視察がある。ブラジル・アルゼンチン・ペルーを巡った旅である。

 

この旅の見どころは世界の三大瀑布の一つ「イグアスの滝」そしてインカ帝国の天空の都市「マチュピチュ」であった。マチュピチュは地球上で日本の真裏にあたり、クスコまで乗り継ぎで20時間、宿泊を入れると所要時間40時間をも要する処に位置する。出発前から期待と不安でわくわくドキドキしていた。

 

ブラジルリオデジャネイロの港は世界三大美港の一つである。夜景は美しくコバカバーナの海岸には多くの海水浴客で賑わっていた。ブラジルの住宅環境は日本と異なり山の手がスラム街で町の中心部が高級住宅街となっていた。山の手は治安が悪いので行かないようにと添乗員から注意を受けたが、殺人などは日常茶飯事だと言う。ブラジルといえば情熱的なリオのカーニバルが思い浮かぶが、開催時期から外れて見ることが出来ず残念であった。

 

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269号 人生あれこれ 海外視察・旅行の思い出(1-2)

-2018/05/07-

早大欧州学生交歓見学団のバスツアーはヒットラーの作ったアウトバーンを一日で四百数十キロ㍍走り続けることもあり大変ハードなツアーであった。このTrans Busでは時折オレンジやリンゴなどの果物が配給されたり、誕生日を迎えた人からケーキが配られたりする一幕もあった。まっすぐに続くアウトバーンの両側の並木の美しさが素晴らしかった。

 

パリでのシャンペン工場の見学では生まれて初めてのシャンペン試飲にその味をしっかりと噛みしめた。パリの自由行動は珍しく深夜0時までとなり、万が一の事故を心配し女性団員を男性2人でエスコートすることになった。夕食代の25フランを持って、絢爛豪華な踊りと食事を楽しみに「リドのショー」を見に行った。最近ではそんなことはないが、当時のフランス人は英語の話しかけには「聞く耳持たぬ」という感じで国民の気位の高さを感じさせられたものだ。個人で食事をしなければならないとき、メニューを見ても内容が判らないので仕方なく値段を見て決めたりしたものだ。世界最大規模のソルボンヌ大学はケンブリッジ大学などと異なり街の中にあり、一種の騒音の中に活気が感じられた。

 

パリではノートルダム寺院やベルサイユ宮殿、モンマルトルの丘、ガルーゼルの凱旋門などの一般的な観光地の他にアンバリッド「ルイ14世によって1671年建てられた廃兵院にある兵士聖廟の南端に高さ105mの大ドームが立っておりその真下にナポレオンの石棺が安置の他、これまでフランスの独立に多大な貢献をしたフランス元帥のフォッシュやナポレオンの弟など七つの墓所とチャペル」を訪れた。その後も何度かフランスを訪れたが此処は初めてで最後の観光であった。

 

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268号 人生あれこれ #28 海外視察・旅行の思い出(1)

-2018/02/05-

オックスフォードに次ぐ古い大学ケンブリッジ大学.jpg私の海外旅行記録を紐解くと、これまで57回(仕事での海外出張は除く)もの旅をしていた。旅行先は風光明媚な観光地や遺跡、急成長の国の実態調査、欧州、東欧、北欧、中東、東南アジア、北米、南米、オセアニアなどの国々では異なる政治体制や異文化を体験した。今なお、行きたくて行けてないのはアフリカ大陸である。もうこの年になると長時間の飛行と時差が苦痛で行く意欲が失せてしまいテレビの旅紀行でも見ている方が良いとさえ思う。

 

それでは私の初めての海外旅行を紹介しよう。それは1965年(昭和40年)8月の大学4年の夏休みに「早稲田大学第一回欧州学生交歓見学団」に参加してのイギリス、オランダからイタリアまでの一ヶ月間のバスツアーの旅であった。

 

この見学団では、5月の結団式を終えてから英会話の練習、欧州経済文化の研究、合宿、国内バス旅行などを行い団員間の緊密化が進められた。団員は4班に編成され、全ての団体行動の基礎はこの班に置かれ、特に行動規律厳守の為に門限などの集合時間の厳守が徹底された。団は大西鐡之助早大教授を団長とし、大学関係者二名と校医を随行し総員128名(うち女性22名)であった。8月2日羽田東急ホテルで壮行会を行い、チャーターしたKLM機でロンドン空港へ向かった。私の生まれて初めての欧州旅行はこうして始まった。この旅は私にとって貴重な思い出深いものとなった。この時の仲間はカラカラ会と称して今でも年に一度集まっている。

 

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267号 人生あれこれ #27 趣味に癒されて

-2018/02/05-

我が家の苔庭.jpeg会社がわが人生のすべてであった頃、私はよく言われる「会社人間」、悪く言えば「社畜」であった。私たち戦中生まれの戦後育ちの人間が、貧しさから早く脱却して米国のような「豊かな暮らし」を夢見てがむしゃらに働いてきた結果である。

 

今年、私は(よわい)75を数え、会社人としての現役も最終盤に近づきつつある。いよいよ城山三郎の著書「毎日が日曜日」を迎えようとしていると実感する。毎日が日曜日となってゴロゴロしていると家庭内粗大ごみとして扱われると聞く。毎日の日曜日をどう過ごすのかは切実な問題である。そうならない為に、趣味をみつけて楽しく癒されながら余生を過ごせたらと思う。

 

そこで「私の趣味は何か」考えてみた。健康管理の為に1996年以来21年間続けている早朝1時間のウォーキング、これだけ続けてくると私にとっては趣味の領域に入っていると感じている。

 

会社人生の第一ラウンドの終わり頃、カメラを趣味にしたいと思い「写真教室」へ通ってみたが、余り心は躍らず芸術ではなく記録写真に徹しようと思った。次に必要に迫られてパソコンを本格的に勉強しようと「パソコン教室」に通った。これは3年半続きワードとエクセルの上級、各種絵図やポスター作製さらにビデオの編集もできるようになった。

 

そして、今や、家族・孫たちの誕生日にA4版写真のバースデーカードをそれぞれ20枚程度贈るのが私のライフワークになっている。

 

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266号 人生あれこれ #26 岡山県公安委員を退任して

-2017/03/27-

公安委員会「皇宮警察視察」昨年10月、岡山県公安委員を退任した。三期九年の任期のうち、2ヵ年は公安委員長を務めた。公安委員とは、県警察を管理する職務を仰せつかり県警本部長の上位に位置付けられた組織である。公安委員の構成は県知事推薦三名、政令都市になってからは市長推薦二名が追加されて五名で活動している。

 

私たちの子供の頃は、イタズラするとよく母親に「おまわりさんに言いつけるよ」と叱られたもので、子供心に「警察官には出来るだけ近寄りたくない」という気持ちがあった。大人になり仕事の関係で地元警察署の交通安全や外国人対策などで少なからず関わって来たものの、公安委員となりこれほど警察と緊密な関係になろうとは夢にも思わなかった。

 

第二の人生の始まりの九年間を公安委員として過ごし、社会に少しでも貢献できたことは本当に幸せに思っている。

 

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265号 人生あれこれ #25 事業多角化への道程(6)

-2016/11/14-

1973年操業時のオーエム機器川上工場事業の多角化は、住宅関連商品からビル関連、物流関連、福祉介護商品へ広がり我が社は急成長を遂げることができました。これは商品企画そして製品開発、顧客開拓、生産体制の全社の機能が上手くマッチングしたからこそと思っております。また、他社との差別化を堅持し、大企業に真似をされないために、工業所有権の取得にも力を注ぎ、出願件数548件、登録件数195件となりました。多角化の初商品の雨戸の生産は、オーエム工業(株)の岡山工場(現在のオーエム産業本社)のメッキ工場の跡地で細々と始めました。その頃は、景気が大変過熱しており深刻な人手不足で、自動車部品の納期も綱渡りをしており、三菱自工からは自動車以外の生産を白い目で見られておりましたし、雨戸も増産に次ぐ増産となりました。そのようなこともあり、生産拠点として川上町の廃校を借り移転する決断をしました。校舎は、雨戸の組み立てラインに最適な細長い建物でしたし、運動場にはプレス加工工場も建設でき、昭和48年2月に生産を開始する事が出来ました。当時、国の貸出総量規制が行われていたので、銀行からの資金調達が大変難しく、廃校を借りて生産能力を増強することは、設備投資を抑えることができ、大変助かりました。それでも新製品の設備投資資金についても取引銀行からの貸出が受けられず、銀行の紹介で地元の信用金庫に足を運びお願いに上がり調達せざるを得ない始末でした。

 

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264号 人生あれこれ #24 事業多角化への道程(5)

-2016/10/31-

クローゼットドア.jpg事業多角化の大きな柱であった住関連商品第一弾の「鋼製雨戸」は、期待を上回る好調な販売で増収増益が続いた。住宅関連事業の柱を太らせるため、更に新しい商品の企画・開発に積極的に取り組んだ。

 

1984年(S59年)のオーエム機器(株)設立10周年に公表した長期経営計画では10年後の1994年(H6年)売上高目標を「100億円」に設定した。策定時の1984年の売上高は僅か19億円であり10年間で5倍の売上高にするという壮大かつ遠大な計画である。その時の意気込みは多少「はったり」もあったが相当なものであった。

 

10年後の1994年売上高実績は、その間に土地バブル崩壊で景気低迷が続くなど紆余曲折があったが「84億円」となり、翌年の1995年には目標の100億円には僅か届かなかったが「99.6億」を達成することができた。夢と大いなる希望を抱いて掲げた目標数字は、実績として我ながら驚異的と思える数字でかなえられた。これはお客様に恵まれ、そして素晴らしい能力を発揮した社員とのコラボレーションが会社のパワーとなって実現できた。

 

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263号 人生あれこれ #23 事業多角化への道程(4)―住宅関連産業に進出、オーエム機器㈱の誕生―

-2016/10/31-

岡山メッキ工業㈱は水島機械金属工業団地(現ウインウバレイ)に進出し、事業内容がメッキ加工業から自動車部品加工業へと大きく様変わりしていったため、昭和46年1月1日に社名を「オーエム工業(株)」に変更した。

 

自動車部品事業は加工業から開発型の部品製造業を目指した。さらに会社を安定させることを目指して事業の多角化を推進し、目途の立った新規事業は自立と事業拡大のために分離独立させる「分社経営」をとった。その第一弾が昭和45年香川県に設立しためっき会社「オーエム産業㈱(現岡山市)」、次に昭和48年設立の住宅関連事業会社「オーエム機器㈱」、そして昭和49年に自動車小物部品製造会社「高梁オーエム㈱(現アステア矢掛)」、昭和51年住宅部材販売会社「㈱オーエム建装(昭和58年廃業)」と矢継ぎ早に進めた。

 

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262号 人生あれこれ #22 事業多角化への道程(3)

-2015/12/14-

新規事業の内容を策定し、具体的展開を推進して来たが、それは決して生易しいものではなかった。成功に導くことが出来たのは、多くの人に支えられ助けられたからであった。まさに「人との縁」である。これは、父母の陰徳のお蔭であると心から感謝している。

 

当時、溥社長は仕事の軸足を自動車部品事業と所属していた工業団地組合や三菱自動車工業協力会、さらに全国鍍金工業組合に置いていた。従って新規の事業については、私が全面的に責任を持って進めた。

 

昭和47年の田中内閣の列島改造論で国内どこもかしこも好景気となったがオイルショックでそれもダウン。その後、金融政策は一転して「選別融資規制の強化、設備資金の融資抑制、大口融資規制」などの通達が立て続けに出され、中小企業の資金調達は困難を極めた。

 

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261号 人生あれこれ #21 事業多角化への道程(2)―新技術・新製品開発―

-2015/07/13-

テットーツルマル雨戸昭和30年代後半からの日本のモータリゼーションはドルショックや乗用車の自由化後も続き、国内自動車メーカーの生産は増産の一途を辿った。しかしながら国内販売はトヨタ自動車と日産自動車の寡占化が一段と進むこととなる。昭和45年、三菱重工㈱は自動車部門を独立分離させ、三菱自動車㈱が誕生した。翌46年には自動車専業メーカーとして自立化・拡大化を図るべくクライスラー社との資本提携を行った。これは資本自由化第一号であった。しかし当時の三菱車の新車の増産効果の期間は短く、またモデルチェンジの当たり外れも大きかったので、協力企業にとっては投資額の大きい割合には収益に結び付きにくい構造となっていた。また当時は、メーカーの系列の締め付けが厳しい時代で、系列外の他社へ部品を納入販売することはほとんど不可能であった。協力企業は投資した現有設備の有効利用も儘ならず親会社の浮沈の影響をまともに受ける状況下にあった。

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