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256号 人生あれこれ #16 自動車産業の発展の息吹と米国の近代的マネジメントの導入

-2013/12/09-

日本経済も戦前の工業生産水準に復活し「もはや戦後ではない」と言われる昭和30年代を迎えていた。父は工場を野田に移転拡張し本格的モータリーゼーション発展の息吹を肌で感じていたようだ。またこれまで無我夢中で事業拡大に意欲を燃やしてきて、社員数も200名の規模にまでになっていた。


その頃、岡山県の指導による中小企業診断協会の経営診断で、大幅な経営管理の刷新勧告を受け、父は改めて社員教育の必要性を痛感させられたそうだ。社員の多くは、色々なキャリアを持った中途採用者で、学卒はまだ極少数であった。当時は社員にきちんと系統だった技術教育や管理教育などしておらず、手先が器用で人を引っ張る能力のある人が幹部となり会社を牽引していた。

 

 

おりしも平和産業が本格的に復興し、企業の総合生産性向上の為にアメリカの近代的マネジメント「科学的経営管理」が積極的に導入されていた。昭和42年、総社の工業団地に進出して間もない当社も、町工場的運営の協力企業の管理レベルアップを図るために三菱自動車が始めた日本能率協会(略称日能)による2ヵ年間の経営指導を受けることになった。これを機会に私も勤務先の会社を急遽退職し当社に入社した。まず初めに私がダイハツの池田工場で日能のIE6ヶ月研修コースを受け、会社では日能指導の事務局を担当して我が社の研修の窓口となった。これが私の本格的経営の勉強の始まりであった。日能のコンサルタントを育てる徒弟制度の教育を自らが受けることとなったのである。先生方のお世話全般と会社の教育指導の段取り、そして夕食、その後の酒を飲みながらの反省ミーティングまでの全人格教育であった。ミーティングでは、大変厳しい叱責を受け、バカ呼ばわりされ、ビールを頭から浴びせられ、悔し涙したことも度々だった。日能の指導のチーフで来られていた阿部松一先生は、業界で「カミソリの阿部」と言われる切れ者であった。新潟の出の母は、同郷のよしみもあって、経営者としての教育をお願いした節もあったが、何よりも私自身が心から敬愛し信頼していたので迷った時には相談に伺ってはご指導を受けた。それは先生が亡くなられまで続いた。まさしく「人生の師」であった。


団地での集団指導が終わった後も、弊社単独で日能の教育を継続し、「管理監督者教育」、作業改善の「IE教育」、品質管理の「ZC運動」、管理充実の「能率管理のPACシステム」、「MH」、「MIC」「計数管理」、計画的管理の「年度経営計画・目標管理」、更には、上級管理職と役員のスキルアップのために、当時の喫緊の課題・問題点を毎月一回日曜日研修(SEC)など5年間の指導を受けた。


今思えばこれらは社員教育でありながら、私自身の経営者教育でもあった。


その後、日能以外にJEMCO日本経営はじめ中堅のコンサルタントも導入し、また違った切り口で研修を積み、技術開発型企業への方向付け、グループ各社の中長期経営計画そしてオーエムグループビジョンなどを立案した。これらの教育のお蔭で、特に若手世代が実力をつけ次第に幹部の世代交代も行われ、当社独自の管理システム「日々予算管理・課別採算管理システム、同期生産システム、溶組治具ワンタッチ段取り替え、ダイレクト納入システム」などを考案実行し、技術開発型のモノづくり会社として大きく成長していった。


「知識・見識・胆識」という言葉がある。単なる記憶レベルとしての知識を、批判力や判断力を伴った見識へと進化させ、更にその判断力を伴った見識を、万難を排して実行するという胆識へと昇華させることで初めて知識と行動が一致する「知行合一」となり知識も活き、人間としての信頼感も高まる。


まさに師から学ぶ過程の「守・破・離」を実践して来たのである。


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