2月に誕生日を迎えて、満92歳になった。たくさんの人のご厚意でこの歳まで生きてこれたと思う。今回は岡山県工業学校(岡工)の同窓生であり、日興電化 工業㈱時代から会社を支えてくれ、会社の基礎づくりに大きな貢献していただいたことはもとより、個人としてもたいへんお世話になった美山幸光氏を紹介した い。
彼は、岡工での4年間で最も仲良しの一人だった。当時、私は倹約家の父のスネかじりだったから小遣い銭に不自由した。食べ盛りであり、腹の足しのおやつとして学校で人気があった蒸しパンの"ろーまん"がたまにしか買えず、彼の好意に甘えては分けてもらっていた。
ま た、カメラ(当時は写真機と呼んでいた)がノドから手がでるほど欲しかったが、父に買ってもらえず、これも彼のカメラを借りて使わせてもらっていた。最終 的には、日興電化工業の工場事務所の机の引き出しに大切に保管していたのだが(ずっと借りっぱなしだったということだ)、大空襲で焼失してしまった。まこ とに申し訳なく今でも気になっている。
彼の性格は私と全く正反対で、学究型というか実践型というか徹底し た理論派で、彼の意見は常に理路整然としていた。多少ナニワ節的なところのある私とは対照的でそりが合わないこともしばしばだった。しかし、よく考えてみ ると、彼の発言には多少過激なところがあったが、本当に会社のこと、私のことを思っての言動だったと今にして思う。私は良き友に恵まれていたといえる。
そ して、彼にはいま一つたいへんなことをしてしまったことがある。これも日興電化工業㈱でのこと。彼が固形の苛性ソーダを鉄タンクに入れ、潮解(固体が湿気 または液を吸収して溶解すること)した液中の固まりの苛性ソーダをゴム手袋で拾って持ち上げようとした時、誤って液中にドボンと滑り落としてしまった。運 悪く、このとばっちりが目に入り、急ぎ水道水で洗浄、私が自転車に乗せて眼科医に駆け込んだが、すでに眼球および周辺は強アルカリに浸され、治癒困難な状 態。後に岡山大学付属病院などで手を尽くしたが、義眼を入れてもらう羽目になった。治療・手術中の痛さは場所が目だけに麻酔薬があまり使えず、その苦痛は 計り知れないものだったと思う。いくら悔やんでも悔やみ切れない思いである。片方の目を失明するというハンディを生涯背負い続け、いくら謝っても謝っても 足りるものではない。特に経営責任者として工場災害の防止は至上命題のはずである。それだけに慚愧に堪えないこととして胸に刻み込んでいるのである。
当時と比べると保護具などをきちんと身につけて作業する環境が整ってきているが、万が一のことがないよう十分な配慮と心がけを持っていただきたい。