283号 人生あれこれ 島巡り(2)端島「軍艦島」

283号 人生あれこれ 島巡り(2)端島「軍艦島」

上から見た端島「軍艦島」.jpg今回は"軍艦島"という響きに魅せられた、私の島巡りひとり旅を書かせて頂こうと思う。

 

軍艦島は、横から見ると軍艦の姿をしているために付けられた俗称で、正式名称は端島である。端島では1810年に石炭の鉱脈が発見されて、1890年に三菱社が島全体と鉱区の権利を買い取り、本格的に石炭の発掘を始めた。端島炭鉱の石炭はとても良質で、隣接する高嶋炭鉱と共に日本の近代化を支えた。石炭の出炭量の増加に比例するように島は急成長を遂げ、1960年には島の人口は5千人を越えた。

 

当時の人口密度はなんと世界一で、東京の人口密度の9倍以上とも言われる。島内には、病院や学校・寺院・神社・派出所や映画館そして理髪店などが立ち並び、島の施設だけで何不自由のない完全な都市として機能していた。しかし島の半分以上は鉱場で、残りの土地に病院や学校・寺院・神社・派出所や映画館・理髪店などが立ち並んでいたため、建物と建物の間はとても狭く、島全体が1つの家族のように仲良く暮らしていた。繁栄を極めた軍艦島であったが、主要エネルギーであった石炭が、その座を石油へ譲ることになり衰退の一途を辿った。19741月に炭鉱は閉山され、この年の4月末には全ての住民が島から離れ、軍艦島は無人島となったのである。

 

しかし多くの人を惹きつけてやまない" 廃墟の島 " 軍艦島が現在でも人々の好奇心を掻き立てるのは、「島全体が繁栄当時のそのままの姿で残っている」ことにある。 廃墟でありながらも、テレビなどの家電や生活の名残がそのまま放置され、昭和の生活を実感することも出来るからである。炭鉱に関係していた人々は、様々な思いを胸に島を去った。閉山された1974年からは一般の立ち入りは禁止されていたが、それも現在解除され、毎年数多くの人が訪れては、廃墟の島が重ねた歴史とその魅力を体感する。

 

軍艦島に関する書物を読んでいた私は、その魅力に心躍り、旅支度をして軍艦島に向かった。長崎港に着くと、雨であった。観光船の運航には支障ないと言う事で満席の観光客を乗せて船は出航した。

 

しかし、外海に出ると、しけは激しく、5M~8Mの大波で船は揺れ、大勢の人がビニール袋のお世話になっていた。波しぶきを避けるために、甲板は全て厚いビニールで覆われ、波に洗われるビニールを通して見る景色は、ぼんやりして何も見なかった。写真だけでも撮りたいと思ったがそれもほとんど無理な状態であった。その後、荒波は10Mから20Mに達し、接岸は不可能と判断され、軍艦島への上陸は断念せざるを得なかった。上陸できるのは1年のうち平均して100日前後だと、後で聞いた。隣の高島に上陸し、展示館で軍艦島の模型などを見て廻り長崎港に帰った。

 

軍艦島を目前にしながら上陸できなかったこの旅は、私の「残念なまぼろしの旅」として今も心に残っている。



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