2004.01.01

名誉会長の昔あれこれ

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220号 母を想う

いささかおこがましい次第ながら、不肖私をこの世に生んでくれた、今は亡き我が母について私の記憶にあるものを思い返してみることをお許し戴きたいと存じます。


 

 

私の母は今考えて見ても、実によく出来た人物であったことを思い知らされる位の人物であったことが日 常の母のやっていたことを思い起こしても納得が いくのである。息子がいうのも変だが、御近所の方々からは"花屋の奥さん"と尊敬され慕われていた。それだけに母なりに前掛けの下に隠してちょっとしたも のを差し上げる様な心遣いをしていた様である。

 

 

私の推測だが、父が母を娶(めと)ったのは どんなことだっ たのか想像し難いが、ただ相当に強引に結婚したのでは?と考えざるを得ない。母の生家は総社市の井尻野では名家の内に入る"たびや"なる家号で知られた家 で、難波家との吊り合いは少し無理がある?様な気はするのだが、父は或程度強引に母を娶ったのでは?と思うふしを考えざるを得ない。

 

 

母は太っ腹で、肝が据わった気丈な女性だったと思う。長男の兄が出征中に、私の事業の関係で祖先伝来 の不動産を担保に使いたい 時に"淑夫(シクオ、長男)には私から言うから担保に使いなさい"といってくれたことがあった。

 

 

又、 我が家は父が教師を勤めながら農業を致して田畑を少々小作にお願いしているので年貢米 が届けられるが、その受渡しは母の担当で、半紙を縦に二つ折りにして綴って造った縦長の大福帳に、立ったまま筆ですらすらと記帳していたのを覚えている。 それに筆で書く字が見事で、上手な字を書いていたのには驚いたものだった。これ程立派に文字を書く親から生まれた自分がどうしてこんなに字が下手なのだろ うか?と悩んだこともあった。

 

 

今一つ自負すべき母は非常に信心深い人間であったと思う。我 が家の檀家寺に 本隆寺なる寺があるが、このお寺の二十三世御住職であった日恵上人は名僧知識で、本門法業宗の大本山の御身内で本来ならば大本山に留まるべきお方なのに、 我が故郷がとくにお気に召されどうしても永住したいとのことで、遂に本隆寺に第二十三世を継承されたのであった。特に弊グループ各社の守護神である"三和 宮"の庚申様を分社して戴いたこともあり、我が母と共に敬愛して止まないお方であった。

 

 

南無妙法連華経...... 。


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