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266号 人生あれこれ #26 岡山県公安委員を退任して

-2017/03/27-

公安委員会「皇宮警察視察」昨年10月、岡山県公安委員を退任した。三期九年の任期のうち、2ヵ年は公安委員長を務めた。公安委員とは、県警察を管理する職務を仰せつかり県警本部長の上位に位置付けられた組織である。公安委員の構成は県知事推薦三名、政令都市になってからは市長推薦二名が追加されて五名で活動している。

 

私たちの子供の頃は、イタズラするとよく母親に「おまわりさんに言いつけるよ」と叱られたもので、子供心に「警察官には出来るだけ近寄りたくない」という気持ちがあった。大人になり仕事の関係で地元警察署の交通安全や外国人対策などで少なからず関わって来たものの、公安委員となりこれほど警察と緊密な関係になろうとは夢にも思わなかった。

 

第二の人生の始まりの九年間を公安委員として過ごし、社会に少しでも貢献できたことは本当に幸せに思っている。

 

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265号 人生あれこれ #25 事業多角化への道程(6)

-2016/11/14-

1973年操業時のオーエム機器川上工場事業の多角化は、住宅関連商品からビル関連、物流関連、福祉介護商品へ広がり我が社は急成長を遂げることができました。これは商品企画そして製品開発、顧客開拓、生産体制の全社の機能が上手くマッチングしたからこそと思っております。また、他社との差別化を堅持し、大企業に真似をされないために、工業所有権の取得にも力を注ぎ、出願件数548件、登録件数195件となりました。多角化の初商品の雨戸の生産は、オーエム工業(株)の岡山工場(現在のオーエム産業本社)のメッキ工場の跡地で細々と始めました。その頃は、景気が大変過熱しており深刻な人手不足で、自動車部品の納期も綱渡りをしており、三菱自工からは自動車以外の生産を白い目で見られておりましたし、雨戸も増産に次ぐ増産となりました。そのようなこともあり、生産拠点として川上町の廃校を借り移転する決断をしました。校舎は、雨戸の組み立てラインに最適な細長い建物でしたし、運動場にはプレス加工工場も建設でき、昭和48年2月に生産を開始する事が出来ました。当時、国の貸出総量規制が行われていたので、銀行からの資金調達が大変難しく、廃校を借りて生産能力を増強することは、設備投資を抑えることができ、大変助かりました。それでも新製品の設備投資資金についても取引銀行からの貸出が受けられず、銀行の紹介で地元の信用金庫に足を運びお願いに上がり調達せざるを得ない始末でした。

 

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264号 人生あれこれ #24 事業多角化への道程(5)

-2016/10/31-

クローゼットドア.jpg事業多角化の大きな柱であった住関連商品第一弾の「鋼製雨戸」は、期待を上回る好調な販売で増収増益が続いた。住宅関連事業の柱を太らせるため、更に新しい商品の企画・開発に積極的に取り組んだ。

 

1984年(S59年)のオーエム機器(株)設立10周年に公表した長期経営計画では10年後の1994年(H6年)売上高目標を「100億円」に設定した。策定時の1984年の売上高は僅か19億円であり10年間で5倍の売上高にするという壮大かつ遠大な計画である。その時の意気込みは多少「はったり」もあったが相当なものであった。

 

10年後の1994年売上高実績は、その間に土地バブル崩壊で景気低迷が続くなど紆余曲折があったが「84億円」となり、翌年の1995年には目標の100億円には僅か届かなかったが「99.6億」を達成することができた。夢と大いなる希望を抱いて掲げた目標数字は、実績として我ながら驚異的と思える数字でかなえられた。これはお客様に恵まれ、そして素晴らしい能力を発揮した社員とのコラボレーションが会社のパワーとなって実現できた。

 

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263号 人生あれこれ #23 事業多角化への道程(4)―住宅関連産業に進出、オーエム機器㈱の誕生―

-2016/10/31-

岡山メッキ工業㈱は水島機械金属工業団地(現ウインウバレイ)に進出し、事業内容がメッキ加工業から自動車部品加工業へと大きく様変わりしていったため、昭和46年1月1日に社名を「オーエム工業(株)」に変更した。

 

自動車部品事業は加工業から開発型の部品製造業を目指した。さらに会社を安定させることを目指して事業の多角化を推進し、目途の立った新規事業は自立と事業拡大のために分離独立させる「分社経営」をとった。その第一弾が昭和45年香川県に設立しためっき会社「オーエム産業㈱(現岡山市)」、次に昭和48年設立の住宅関連事業会社「オーエム機器㈱」、そして昭和49年に自動車小物部品製造会社「高梁オーエム㈱(現アステア矢掛)」、昭和51年住宅部材販売会社「㈱オーエム建装(昭和58年廃業)」と矢継ぎ早に進めた。

 

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262号 人生あれこれ #22 事業多角化への道程(3)

-2015/12/14-

新規事業の内容を策定し、具体的展開を推進して来たが、それは決して生易しいものではなかった。成功に導くことが出来たのは、多くの人に支えられ助けられたからであった。まさに「人との縁」である。これは、父母の陰徳のお蔭であると心から感謝している。

 

当時、溥社長は仕事の軸足を自動車部品事業と所属していた工業団地組合や三菱自動車工業協力会、さらに全国鍍金工業組合に置いていた。従って新規の事業については、私が全面的に責任を持って進めた。

 

昭和47年の田中内閣の列島改造論で国内どこもかしこも好景気となったがオイルショックでそれもダウン。その後、金融政策は一転して「選別融資規制の強化、設備資金の融資抑制、大口融資規制」などの通達が立て続けに出され、中小企業の資金調達は困難を極めた。

 

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261号 人生あれこれ #21 事業多角化への道程(2)―新技術・新製品開発―

-2015/07/13-

テットーツルマル雨戸昭和30年代後半からの日本のモータリゼーションはドルショックや乗用車の自由化後も続き、国内自動車メーカーの生産は増産の一途を辿った。しかしながら国内販売はトヨタ自動車と日産自動車の寡占化が一段と進むこととなる。昭和45年、三菱重工㈱は自動車部門を独立分離させ、三菱自動車㈱が誕生した。翌46年には自動車専業メーカーとして自立化・拡大化を図るべくクライスラー社との資本提携を行った。これは資本自由化第一号であった。しかし当時の三菱車の新車の増産効果の期間は短く、またモデルチェンジの当たり外れも大きかったので、協力企業にとっては投資額の大きい割合には収益に結び付きにくい構造となっていた。また当時は、メーカーの系列の締め付けが厳しい時代で、系列外の他社へ部品を納入販売することはほとんど不可能であった。協力企業は投資した現有設備の有効利用も儘ならず親会社の浮沈の影響をまともに受ける状況下にあった。

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260号 人生あれこれ #20 事業多角化への道程(1)―日本の自動車産業の発展と共に―

-2015/03/09-

みずしまTM6D(1955年)終戦当初はGHQから乗用車の生産を禁止されていた日本であったが、1949年にそれも解除され、海外車両のノックダウン生産から本格的乗用車生産が開始された。日野自動車はフランスのルノー社、日産自動車はイギリスのオースチン社、いすゞ自動車はイギリスのヒルマン社、新三菱重工業は米国のウィルス車と提携しノックダウン生産を行い、欧米の最新の自動車生産技術をキャッチアップしたのである。その中で、トヨタ自動車だけが純国産乗用車の独自路線を貫いた。従って当時の金持の多くが乗っている乗用車はほとんど外車で高嶺の花であった。私の掛かり付けの小児科医の愛車も最新の国産ノックダウンのヒルマン車で、その洗練されたスタイルは素晴らしく、幼い私は「高嶺の花の自動車」を羨ましく眺めていた。
 
戦後復興期のモータリゼーションは、自転車に補助エンジンを付けただけの町工場で生産された原動機付自転車に始まり、次第に大手の中日本重工(現三菱重工)のシイルバーピジョン、富士重工のラビットなどのスクターに移り、そして荷役運搬の足として軽三輪トラックの登場を経て軽四輪自動車へと発展して行ったのである。

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259号 人生あれこれ #19 自動車部品製造業に傾注

-2014/12/15-

大型プレス作業風景.jpg当社は、戦中に軍需産業のメッキ加工業として発足し、戦後は再生品のメッキ加工を生業としてきた。戦後初めて行われた中国地区メッキ技術コンクールで県知事賞を受賞したことで、朝鮮特需の自動車部品のメッキ加工の受注に成功して以来、メッキ加工専業から自動車部品製造業へと次第に軸足を移していった。昭和34年の野田工場への移転時に、事業欲に燃えていた溥社長は、事業拡大を目指し積極的に自動車部品の生産設備投資を行った。しかし残念なことに総評系の労働組合が設立され、その収拾に多大の年月を要し経営近代化については同業他社に比べて大きく後れを取ってしまった。昭和40年水島機械金属工業団地(現ウイングバレイ)内に立地した総社工場は自動車部品専業の工場である。メッキ部門ではバンバーを立て吊りできる全自動大型Ni‐Crめっき設備、板金部門では念願の大型プレス350Tラインやドアーサッシュ生産ラインなどが新設され、素材から表面処理までの一貫生産体制づくりに本格的に着手した。水島機械金属工業団地は、高宮晋一橋大学教授、滝沢菊太郎名古屋大学助教授など6人の先生方が広島通産局と岡山県商工部の依頼で、三菱重工水島自動車製作所(現MMC)とその下請け企業の系列診断を行ったときの答申「中小企業近代化施策の工場集団化高度化資金」を活用して造られたMMC下請け企業の団地である。

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258号 人生あれこれ #18 父と私

-2014/07/22-

出掛ける父溥95歳人には、生まれてくる時や場所を自分で選択する自由はない。私も自らの意志で世界大戦最中の真珠湾攻撃の日を選んで日本国民として生まれてきたわけではなく、天から与えられた運命によって父溥と母貞の長男としてこの世に生を授かった。両親は、私にこの人生を与えてくれたのである。


けなげなる子供は「愛」で育つと言われるが、それでだけでは不十分で「敬」が必要であると先哲は説いている。子供は「可愛がられたい、愛されたい」という本能的欲求と同時に、「敬」という対象を持ちその対象から自分が「認められたい、励まされたい」という強い欲求も持っている。その「愛と敬」が相まって初めて人格が形成されていくという。多くの人と同様に、私も「愛」の対象を「優しい母」に求め、「敬」の対象を「敬慕される強い父」に求めた。

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257号 人生あれこれ #17 大量生産の生産技術確立へ

-2014/03/10-

油圧バンパー成形機.jpg世界に冠たる日本の自動車産業の夜明けは、『岡山在住の技術者、山羽虎夫』が1904年初の純国産自動車である「山羽式蒸気自動車」を制作・試運転したのが始まりである。


戦後の日本の自動車メーカーは、先を争って欧米の先進技術の導入を積極的に進めた。東日本重工業(現三菱自動車)はアメリカのカイザー・フレイザー社(1950年)、日産自動車はイギリスのオースチン車(1952年)、日野自動車はルノー車(1953年)、いすゞ自動車はイギリスのルーツ社のヒルマンミンクス車(1953年)など乗用車の受託生産を始めた。純国産技術を維持したのはトヨタ自動車だけだった。


当時の自動車産業に携わる者は、地元の経営者から「世界と伍して、海のものとも山のもとも分からない儲けの少ない仕事をするなんて愚か者だと言われた」と聞かされている。しかしながら当社は、そう評された自動車産業の成長を信じ、三菱自動車の協力工場の工業団地に進出したのである。

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