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274号 人生あれこれ 海外視察・旅行の思い出(1-5)「西安&莫高窟の旅」

-2019/12/23-

西安城壁.jpg中国を初めて訪問したのは1981年11月の商工中金ユース会議の海外視察である。瀋陽そして北京・上海を訪れた。その時、中国人の服装に驚かされた。北京では男女共に国防色の服を身に着けていたが、上海ではカラフルな服を着ていた。上海では休日に貸カメラを借りて一人っ子政策の子供を連れた家族が公園に出掛けて写真を撮って楽しんでいた。その後6回中国を訪問する機会があった。その度に表面上は変化し進化する姿に目を見はらされた。

 

 

 

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273号 人生あれこれ 令和を迎えて

-2019/12/23-

2008-04-17 園遊会RIMG0001_(25).JPG平成の時代が幕を下ろし、新たに令和の時代を迎えた。

 

平成を振り返ると、東欧諸国で民主化革命が起きる中で東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩壊するなど劇的な出来事が相次いで起こった。民主主義対共産主義の大国冷戦構造の米ソ対立も次第に米中の新冷戦構造へと変化してきた。

 

国内では明治以降初めて戦争体験をすることなく終えた時代であったがテロや災害の試練に直面した時代でもあった。オーム真理教による地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災、東日本大震災とそれに伴う原発被害、熊本地震、そして昨年7月の西日本豪雨災害は岡山県にも大きな被害をもたらした。天皇皇后両陛下が絶望と不安でいっぱいの被災地を慰問され、国民目線で膝をついて聞いて下さるお姿は多くの人に希望と力を与えて下さった。

 

新たに令和の時代を迎え、天皇陛下は江戸時代後期の光格上皇以来200年ぶりに上皇に即位された。上皇陛下は皇太子時代を含めて岡山県に12回お目見えになった。

 

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272号 人生あれこれ 海外視察・旅行の思い出(1-4)

-2019/07/15-

1996-03-01~07 タージ会「インドの旅」(1).jpg1996年3月インドを訪れた。関空を出発してシンガポールでトランジット。22時にニューデリー空港に到着。空港は香料を多く使う国民性の為か強烈な臭いで満たされ汚れていた。その光景はまさに当時の発展途上国を象徴しているようであった。気温は45度と高く蒸し蒸していた。迎えの車は雨季で道路がぬかるむから車高が高い四輪駆動のパジェロであった。ホテルまで行く道路には牛が沢山うろうろして牛を避けながら運転する始末である。インドでは牛は神として崇められ、苦役に使えなくなった牛は屠殺されず町に放し飼にされ住民が餌を与えていた。

 

インドはインダス川流域で世界三大文明の一つインダス文明を生み育み、世界宗教の一つの仏教が誕生した歴史ある国家である。

 

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271号 人生あれこれ 海外視察・旅行の思い出(1-3)

-2019/07/01-

マチュピチュ&ベロニカ山.jpg1990年マチュピチュ遺跡を訪れた。マチュピチュはアンデスの言葉であるケチュア語で「老峰」の意味で、ペルーのクスコ地方を中心として13世紀頃誕生したインカ帝国の代表的遺跡である。1983年ユネスコ世界遺産に認定されて以来、日本人に人気の高い世界遺産の一つである。

 

マチュピチュはマチュピチュ峰と岩山のワイナピチュ峰に挟まれた標高2400mの険しい断崖の頂の岩棚に築かれている空中都市であった。登山バスで登頂しマチュピチュウを一望した時、その美しさと荘厳さに心打たれ、その光景は今なお脳裏に焼き付いている。このマチュピチュは、15世紀に小勢力であったインカ帝国を急成長させた9代目パチャクティ皇帝により彼の郊外の王宮、つまり離宮として造られたのである。パチャクティ皇帝はアンデスを統一し、北はコロンビア、南部はチリ中部に至る南北4000キロメートルをインカ帝国の影響下に置いた。マチュピチュはインカ帝国の首都クスコの北西に位置している。

 

アメリカ大陸での高度な文明の出現は、マヤをはじめとするメソアメリカとインカに代表される南米のアンデスの2地域だけであり、旧大陸の4大文明(メソポタミア、エジプト、インダス、古代中国)と共に世界6大文明を構成した。

 

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270号 人生あれこれ 海外視察・旅行の思い出(2-1)

-2018/09/03-

イグアスの滝.jpg思いで深い海外旅行の一つに、1990年11月2日から17日までの15日間の南米視察がある。ブラジル・アルゼンチン・ペルーを巡った旅である。

 

この旅の見どころは世界の三大瀑布の一つ「イグアスの滝」そしてインカ帝国の天空の都市「マチュピチュ」であった。マチュピチュは地球上で日本の真裏にあたり、クスコまで乗り継ぎで20時間、宿泊を入れると所要時間40時間をも要する処に位置する。出発前から期待と不安でわくわくドキドキしていた。

 

ブラジルリオデジャネイロの港は世界三大美港の一つである。夜景は美しくコバカバーナの海岸には多くの海水浴客で賑わっていた。ブラジルの住宅環境は日本と異なり山の手がスラム街で町の中心部が高級住宅街となっていた。山の手は治安が悪いので行かないようにと添乗員から注意を受けたが、殺人などは日常茶飯事だと言う。ブラジルといえば情熱的なリオのカーニバルが思い浮かぶが、開催時期から外れて見ることが出来ず残念であった。

 

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269号 人生あれこれ 海外視察・旅行の思い出(1-2)

-2018/05/07-

早大欧州学生交歓見学団のバスツアーはヒットラーの作ったアウトバーンを一日で四百数十キロ㍍走り続けることもあり大変ハードなツアーであった。このTrans Busでは時折オレンジやリンゴなどの果物が配給されたり、誕生日を迎えた人からケーキが配られたりする一幕もあった。まっすぐに続くアウトバーンの両側の並木の美しさが素晴らしかった。

 

パリでのシャンペン工場の見学では生まれて初めてのシャンペン試飲にその味をしっかりと噛みしめた。パリの自由行動は珍しく深夜0時までとなり、万が一の事故を心配し女性団員を男性2人でエスコートすることになった。夕食代の25フランを持って、絢爛豪華な踊りと食事を楽しみに「リドのショー」を見に行った。最近ではそんなことはないが、当時のフランス人は英語の話しかけには「聞く耳持たぬ」という感じで国民の気位の高さを感じさせられたものだ。個人で食事をしなければならないとき、メニューを見ても内容が判らないので仕方なく値段を見て決めたりしたものだ。世界最大規模のソルボンヌ大学はケンブリッジ大学などと異なり街の中にあり、一種の騒音の中に活気が感じられた。

 

パリではノートルダム寺院やベルサイユ宮殿、モンマルトルの丘、ガルーゼルの凱旋門などの一般的な観光地の他にアンバリッド「ルイ14世によって1671年建てられた廃兵院にある兵士聖廟の南端に高さ105mの大ドームが立っておりその真下にナポレオンの石棺が安置の他、これまでフランスの独立に多大な貢献をしたフランス元帥のフォッシュやナポレオンの弟など七つの墓所とチャペル」を訪れた。その後も何度かフランスを訪れたが此処は初めてで最後の観光であった。

 

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268号 人生あれこれ #28 海外視察・旅行の思い出(1)

-2018/02/05-

オックスフォードに次ぐ古い大学ケンブリッジ大学.jpg私の海外旅行記録を紐解くと、これまで57回(仕事での海外出張は除く)もの旅をしていた。旅行先は風光明媚な観光地や遺跡、急成長の国の実態調査、欧州、東欧、北欧、中東、東南アジア、北米、南米、オセアニアなどの国々では異なる政治体制や異文化を体験した。今なお、行きたくて行けてないのはアフリカ大陸である。もうこの年になると長時間の飛行と時差が苦痛で行く意欲が失せてしまいテレビの旅紀行でも見ている方が良いとさえ思う。

 

それでは私の初めての海外旅行を紹介しよう。それは1965年(昭和40年)8月の大学4年の夏休みに「早稲田大学第一回欧州学生交歓見学団」に参加してのイギリス、オランダからイタリアまでの一ヶ月間のバスツアーの旅であった。

 

この見学団では、5月の結団式を終えてから英会話の練習、欧州経済文化の研究、合宿、国内バス旅行などを行い団員間の緊密化が進められた。団員は4班に編成され、全ての団体行動の基礎はこの班に置かれ、特に行動規律厳守の為に門限などの集合時間の厳守が徹底された。団は大西鐡之助早大教授を団長とし、大学関係者二名と校医を随行し総員128名(うち女性22名)であった。8月2日羽田東急ホテルで壮行会を行い、チャーターしたKLM機でロンドン空港へ向かった。私の生まれて初めての欧州旅行はこうして始まった。この旅は私にとって貴重な思い出深いものとなった。この時の仲間はカラカラ会と称して今でも年に一度集まっている。

 

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267号 人生あれこれ #27 趣味に癒されて

-2018/02/05-

我が家の苔庭.jpeg会社がわが人生のすべてであった頃、私はよく言われる「会社人間」、悪く言えば「社畜」であった。私たち戦中生まれの戦後育ちの人間が、貧しさから早く脱却して米国のような「豊かな暮らし」を夢見てがむしゃらに働いてきた結果である。

 

今年、私は(よわい)75を数え、会社人としての現役も最終盤に近づきつつある。いよいよ城山三郎の著書「毎日が日曜日」を迎えようとしていると実感する。毎日が日曜日となってゴロゴロしていると家庭内粗大ごみとして扱われると聞く。毎日の日曜日をどう過ごすのかは切実な問題である。そうならない為に、趣味をみつけて楽しく癒されながら余生を過ごせたらと思う。

 

そこで「私の趣味は何か」考えてみた。健康管理の為に1996年以来21年間続けている早朝1時間のウォーキング、これだけ続けてくると私にとっては趣味の領域に入っていると感じている。

 

会社人生の第一ラウンドの終わり頃、カメラを趣味にしたいと思い「写真教室」へ通ってみたが、余り心は躍らず芸術ではなく記録写真に徹しようと思った。次に必要に迫られてパソコンを本格的に勉強しようと「パソコン教室」に通った。これは3年半続きワードとエクセルの上級、各種絵図やポスター作製さらにビデオの編集もできるようになった。

 

そして、今や、家族・孫たちの誕生日にA4版写真のバースデーカードをそれぞれ20枚程度贈るのが私のライフワークになっている。

 

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266号 人生あれこれ #26 岡山県公安委員を退任して

-2017/03/27-

公安委員会「皇宮警察視察」昨年10月、岡山県公安委員を退任した。三期九年の任期のうち、2ヵ年は公安委員長を務めた。公安委員とは、県警察を管理する職務を仰せつかり県警本部長の上位に位置付けられた組織である。公安委員の構成は県知事推薦三名、政令都市になってからは市長推薦二名が追加されて五名で活動している。

 

私たちの子供の頃は、イタズラするとよく母親に「おまわりさんに言いつけるよ」と叱られたもので、子供心に「警察官には出来るだけ近寄りたくない」という気持ちがあった。大人になり仕事の関係で地元警察署の交通安全や外国人対策などで少なからず関わって来たものの、公安委員となりこれほど警察と緊密な関係になろうとは夢にも思わなかった。

 

第二の人生の始まりの九年間を公安委員として過ごし、社会に少しでも貢献できたことは本当に幸せに思っている。

 

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265号 人生あれこれ #25 事業多角化への道程(6)

-2016/11/14-

1973年操業時のオーエム機器川上工場事業の多角化は、住宅関連商品からビル関連、物流関連、福祉介護商品へ広がり我が社は急成長を遂げることができました。これは商品企画そして製品開発、顧客開拓、生産体制の全社の機能が上手くマッチングしたからこそと思っております。また、他社との差別化を堅持し、大企業に真似をされないために、工業所有権の取得にも力を注ぎ、出願件数548件、登録件数195件となりました。多角化の初商品の雨戸の生産は、オーエム工業(株)の岡山工場(現在のオーエム産業本社)のメッキ工場の跡地で細々と始めました。その頃は、景気が大変過熱しており深刻な人手不足で、自動車部品の納期も綱渡りをしており、三菱自工からは自動車以外の生産を白い目で見られておりましたし、雨戸も増産に次ぐ増産となりました。そのようなこともあり、生産拠点として川上町の廃校を借り移転する決断をしました。校舎は、雨戸の組み立てラインに最適な細長い建物でしたし、運動場にはプレス加工工場も建設でき、昭和48年2月に生産を開始する事が出来ました。当時、国の貸出総量規制が行われていたので、銀行からの資金調達が大変難しく、廃校を借りて生産能力を増強することは、設備投資を抑えることができ、大変助かりました。それでも新製品の設備投資資金についても取引銀行からの貸出が受けられず、銀行の紹介で地元の信用金庫に足を運びお願いに上がり調達せざるを得ない始末でした。

 

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